【読書No.76】呼ぶ山/夢枕獏
相当きてるといったら、言い得ていないかもしれない。
山に入ったら、ありそうかもしれないと感じることがある。
いないはずの人の気配だったり、羽ばたく鳥たちの羽音や鳴き声、獣たちの土を引っ掻く蹄。突風が木々を搔き鳴らし、流れた葉が頬を伝う。目に見えない有音と何もない、しんとした静寂が、さまざまな風景を描かせる。それがときには過去にあった情景の再現や、もう会うことのできない肉親との再会であったりする。
山に登れば、特に一人で登れば、己と向き合う時間が必然的に大部分を占める。そうすると、ふだんの生活から乖離して、その分だけ身だけでなく、心まで日常から離れていき、自然に溶け合うように寄り添うようになる。
すると、どうだろう。五感は次第に鋭く研ぎ澄まされていくのを自覚する。ああ、どういうことだろう。ふだんの人に囲まれた都会の喧騒が、電車や職場、テレビやラジオを通じた喧しさが消え、代わりに己というものが立ち上がってくるのだ。
本書はそうした洗練された心身が招く、あったら怖い、あるかもしれない、現実の延長上に起こる可能性のある世界を机上で体験できる。山に登れば、なおのこと、ありそうと思うこと請け合いだ。山には得体の知れない何かがある、そう確信してしまう作品だ。